先日、庭師の櫻井くんから「宇野さんは、いのちを見つめる目をどのようにして養ってきたのか」という趣旨の質問を受けた。迷わず「母への思いだ」と答えた。僕の母は、生まれながらにして心臓に障害を持って生まれてきた。子供を産めない身体で、いのちと引き換えに僕を産んだ。その後も日々いのちの危険と隣り合わせの日常だった。母を心配させないようにいつも無邪気に振る舞っていたが、実は心では「お母ちゃんが今日も元気でいれますように」といつも祈っていた。学校から帰宅し、母の元気な姿を見るたびに誰にいうでもなく「ありがとう」と心の中で手を合わせた。「祈り」と「感謝」は僕にとって宗教でもなんでもなく、当り前の日常だった。そんな日常も母の死とともに終りを、自ずと仕事や新しくできた家族に向けられるようになった。そんな折、雑誌「住む」に赤木明登氏の「祈るために」というエッセイを見かけた。その中にこんな一文があった。
「器は、使うために作る。盛られた食べ物を美味しくいただくために器を使う。いただいたものが旨ければ、自ずと「ありがたい」という言葉が生まれる。「ありがたい」と手を合わせることは「祈る」ことにほかならない。僕は、祈るために作りつづけようと思う」
この文を借りて、今の自分の仕事に当てはめるとぴったり来る。
「建築は、使うために作る。日々の生活を豊かにするために建築を使う。日々の生活が豊かになれば、自ずと「ありがたい」という言葉が生まれる。「ありがたい」と手を合わせることは「祈る」ことにほかならない。僕は、祈るために作りつづけようと思う」