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6/14「意味」について考える。その2

時々、建築について説明を求められる時がある。そういうことに饒舌な建築家はたくさんいる。がしかし、僕にはみんなが納得出来るようなもっともらしい理論やコンセプトはない。ただひとつ言えることは、自然を愛おしく思う気持ちは誰よりも強いということ。だから自然(素材、陽光、風等々)を最大限生かせることをいつも考えている。それはちょうど愛する人に何かをしてあげたいという”衝動”に似ている。

だから大切なことは ”意味” ではなく ”歓び” だ。

その思いが強くなればなるほど言葉は、建築を矮小化してしまうのではないかと思い、言葉に対して信頼が持てなくなる。本来建築は、巧みな言葉や美しく装飾された図面や模型によって説明出来るものではないと思う。だから実物を見て感じてほしい。それによって建築家としての可能性を縮めたとしても、納得出来ないものをこの世に作り出してしまうよりはずっとマシだから。
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by unocolumn | 2010-06-14 13:22 | 建築観

6/14 「意味」について考える。その1

「南山の家」のオープンハウスを終えて「外構と建築との繋がり、関係性に違和感がある」という感想を数件聞いた。このことについて少し話しておこう。私たちは普段の生活で、便利なこと、機能的なこと、役に立つことに価値を置きすぎていないか。造成や植樹を何の疑いもなく「庭」だと思う。もし、例えば林の中にポツンと一軒建てたとしよう。その場合、周囲の林は「庭」だろうか?どこか人間の傲慢さを感じないか。「在る」ことに意味があり、「在る」ことに満たされる。そう感じられたら本当に幸せなことではないだろうか。櫻井くんは“庭”を作っているのではない。ただ祈りをこめて“復元”しているだけだ。そして、僕は愛おしい素材たちに“再生”を誓っている。私たちは何かを起こそうとする時、必ず目的や意味を求められる。それを当り前だと思っている。ここで少し考えてほしい。役に立たない人間は、生きている意味がないのだろうか。外見が美しい人が素晴らしいのだろうか。高尚な哲学をもった人間が価値が高いのだろうか。これと同じことが建築にも言える。優れた機能と美しいデザイン、斬新なコンセプトを持つ建築が本当に素晴らしいのだろうか。僕は ”あるべきもののない建築” にそれらは何の意味もないことだと思う。大切なことは、”建築に対する無償の愛” ではないか。建築を何かの道具にしていないか。「自己表現」「売名」「商売」等々。家族や恋人を愛するように建築を愛する。“大切な建築” を作るには、それ以外方法はないと思う。
 


   肝心なものは目に見えないんだよ。  サン・テグジュペリ
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by unocolumn | 2010-06-14 11:23 | 建築観

6/4 須永 豪くんとの往復書簡

「南山の家」のオープンハウスに参加してくれたサバイバルデザインの須永 豪くんとの往復書簡。

こんばんは。早速ご返事ありがとうございます。

「現代土蔵」はこれまでの宇野さん建築の印象と結びつかず、ボーっと見てしまって残念ながら理解できていませんでした。なるほどまた「新たな試みへの挑戦」なのですね。ウカウカしてると見る側が置いてきぼりになりますね。遺産・財産に安住せず、常にゼロからの創作を進み続ける姿勢に驚きます。

こういうと不思議に感じられるかもしれませんが、私自身構造に関してのこだわりは全くありません。私の好奇心の赴くままに特にこだわりはありません。現代住宅の土壁、特に大壁の仕上げについて以前より違和感を持っていました。小舞を組んで荒壁を塗ってもボードを貼ってはおしまいです。叩けばポコポコいうような土壁はどんな塗り方をしても偽物です。かといって土蔵を提案するのもナンセンスです。だから最近は塗り壁の木造は避けていました。しかし、今時期がきたのだと思います。自らの知識、技術、経験。僕の周りにいる職人の技術と信頼関係がその時期を作ったのだと思います。考え方は簡単で、小舞を型枠代わりに土をコンクリートに見立てて充填する。そのためには従来の小舞や土では、構造上、施工性などに問題があるために小舞の編み方を工夫し、土は重量を軽くし断熱性をもたせ、乾燥を早めるためにパーライトを半分ほど配合しました。石灰は凝固を早めるためと壁内での安定化、防腐防虫のためです。これらのことを考えて試みたものです。これも僕の周りにいる職人たちの智恵がなせる技だと思います。

「南山の家」で感じたことを少し書かせていただきます。(率直な感想こそが、なによりの誠意と信じて、正直に。)外部空間は、アプローチ・庭とも地形と周辺環境の空気に素直に従いゆったりして、とても心地よいものでした。中に入るとそれが一転し、祈りの空間、もしくは遺跡のような厳粛さ。石と空気と光だけのガランドウ。高い天井を見上げながら、あぁ『伽藍堂』かぁ・・・と、思いました。精神の居所とでも言うのでしょうか。現在の私は、現在の宇野さんとは考えが違うのかも知れないと感じました。私は住居=人の巣と思っています。ふわふわした居心地、ダラッとした開放、放ったらかしの自由が、怠惰かも知れませんが、好きです。そんな身体感覚の者からすると、南山の家の空間は、ピラミッドか遺跡か、魂のためにある空間のように感じました。(RC造が苦手なわけではありません。阿部勤さん・東孝光さんの自邸、室伏次郎さんの大和町の家は実際に体験し、身体的な空間で好きです)「本郷の家」では空気のユルさを感じ、ここで一日中ごろごろしてたいなぁと思っていました。「南山の家」の外部空間にも同じ種類のユルさ、おだやかさを感じたのですが、内部空間へそれを連続させなかったのはなぜだろう、と不思議です。年齢を重ねての変化なのか、クライアントの個性がそうさせたのか。

須永くんの感想、指摘は大変的確で的を射たものだと思いました。あらためて今の自分のスタンスを確認出来た意見でした。結論から言うと僕は自分でも気付かぬうちに「住宅作家」から今はほとんどいなくなってしまった「真の建築家」を目指すようになっていたのだと思います。

まだ、何を目指して作るかを迷っていた30代。当然のように住宅の依頼しかないので「住宅」というものを手がかりに建築を作り出しました。しかし、次第に「建築のいのち」というものに関心が向くようになりました。建築の寿命には、構造的なものもありますが、一番短命な寿命が「機能」では無いかと考えました。「住宅」はその「機能」の典型です。「住宅」を求められているのだから「住宅」を作るべきではないかといわれればその通りです。しかし、今住宅作家たちが作る住宅を見てみてください。求められる便利さや機能性を優先し、真の豊かさを提案することもなく、一過性のデザインを押し付ける。

不便な家を勧めている訳ではありません。以前の日本の住宅の中にあたりまえにあった自然を取込み、消費されない豊かさを得られる「住宅」、いや「建築」を作れないでしょうか。

安藤さんは、元ボクサーらしく建築を通して自然を「肉体」と対峙させて「豊かさ」を提案しましたが、僕はそれが「心」「精神」に向いているようです。その要素が以前より強くなったせいか、”ユルさ”が失われたように感じたかもしれませんね。

ただ少しばかり感じたのは、須永くんの「住宅」に対する考え方が少し狭いか、固定化されてはいませんか。全ての建築は「住宅」だともいえます。しかし、名前や概念などは本来どうでもいいことだと思いませんか。それらに縛られることなく、真に豊かなものを作ることが大切なことで、私たちに求められていることではないでしょうか。

30代の頃の僕と今の僕とで大きく変わったことがあります。以前は、施主のライフスタイルにある種の理想を求めていました。何かの型に施主の生活をはめようとしていたと思います。しかし、50歳を目前とした今は、施主のライフスタイル対する要望は全くありません。それよりも自分の想像と違うライフスタイルを垣間見ると嬉しくなったりもします。これは自分の思いを確実に建築に託すことが出来ている証しなのかもしれません。

でも、これも今の自分にとっては過渡期だと思っています。私の建築が際立った印象を与えるものだとすれば、それは本来求めているものではありません。時には「草花」のように、時には「木」のように自然に存在することが理想です。

長々と書き綴ってしまいましたが、あらためて自分のスタンスを確認するために書かせてもらいました。独り言だと思って読んでください。
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by unocolumn | 2010-06-03 21:50 | 建築観