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12/16 建築は根拠が必要な唯一の芸術か

施工を本格的に行うようになって10年が過ぎようとしている。設計のみをしている時と明らかに違うのは、すべてにおいて根拠が必要だということ。納まらない(予算、施工、技術、機能など)アイデアをすべて工務店に任せる今の設計者のスタイルでは、すべてが後手に回り、その場しのぎで見た目重視のハリボテ建築になってしまう。建築はパビリオンではない。根無し草ではあまりにも罪深い。だから根拠が必要だ。今建築家は工務店や職人という「傘」の下でぬるま湯に浸かっている。かつての棟梁のように設計者が「傘」を持つとき、初めて本当の自由とやりがいを感じると思う。
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by unocolumn | 2009-12-16 09:20 | 設計・施工

12/15 どうも勘違いされているようで

ここ1、2年比較的規模の大きな住宅に縁があったせいか、先日もあるクライアントから「私たちのようなローコストでも相談に乗っていただけますか」という趣旨のお話がありました。私自身は、今まで金額の大小にこだわったことは一度もなかったので、やっぱりそう思われるのかと少し落胆しました。ただ面積重視のローコスト住宅を設計するつもりもありませんが、予算が豊富な豪邸ばかりを作りたいとも思っていません。ただいつも思っていることは、私の作る住宅に住んでみたいと思っていただけるクライアントのために最善を尽くしたいだけです。その思いに予算の大小は全く関係ありません。また、そうでなければよい仕事もできませんし、美しい住宅も作ることは出来ません。だから、今後もこの姿勢はずっと変わらないと思います。
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by unocolumn | 2009-12-15 22:52 | 設計・施工

12/3 出来た作品と・・・

 フランスの詩人シャルル・ボードレールは、「出来た作品と仕上げられた作品との間には大きな違いがある」といっている。そして、彼にとって「出来た」作品というのは、たとえ「仕上げられて」いなくても、作品として素晴らしく「出来栄え」のいいものを意味していた。つまり彼は、技術的完成度と美的価値とは必ずしも次元を同じくするものではないと言いたかったのだ。
 また、セザンヌも「私は常に仕事をせねばなりません。しかしながら、それは世の馬鹿者どもの賛嘆の的となるあの仕上げに到達するためではありません。これは俗世間ではあれほど賞賛しますが、実は職人的技術の問題にすぎず、あらゆる作品を非芸術的かつ平板にしてしまうだけです」と言っている。

 これらの言葉は、今改めて自分が立っている位置を指し示してくれていると思う。今までは、完成度を求めて、可能な限り「仕上げ」てきた。しかし、そうすればするほど作品に裏切られているような思いを隠せずにいた。それは、知らず知らずのうちにある可能性を抹殺して、満足することができない現実に収斂してしまっていたからだろう。技術的な完成と、自らの信じる、あるいは目指すところの価値とのこうしたギャップは、製作一般に不可避的なものかもしれない。
 だからといって「仕上げられていない作品」が「出来た作品」かと言えばそうではない。技術の軽視、いわゆる「手を抜く」ことが価値を実現するわけではない。だとしたら何を頼りに作るのか。
 それは、「謙虚な姿勢で天命を信じる。そして、人事を尽くすこと」に尽きるだろう。そういう意味で今施工中の「御幸山の家」は全く新しいボクであるとも言える。    
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by unocolumn | 2009-12-02 22:57 | 建築観