人は、
もの1によってなかみを見ることができる。
もの1無くして、どうして人間という不完全な存在が、いのちに至ることができよう。むしろ心に近づくために、神が人に与えてくれたものが、
もの2の本質だと言っていいかもしれない。このように、
もののリアリティー(存在感)1によっていのちを追い、いのちによって
もののリアリティー1を求める人は、ただ
もの1を見たり語ったり分析したりしていることでは満足できず、自らの手でそれをつくらずにはいられない。というよりは自らつくらずして、
もの1の本質を見ることはできない。
(中略)ものをつくるという人間の行為は、なんと不思議な神秘であることか。自分を捨て、自分を超えた素晴らしいものに、身を捧げ、没入する。それを部分的にではなく、すべてをかけて行ったとき、まぎれもなく、まさにその人そのものが大きく姿を現す。
これは最近読んだ「シェーカーへの旅」藤門弘著の巻末で、建築家の香山壽夫氏が書かれた解説の中での一文を、勝手ながら少し自分なりにしっくりする文字におきかえたものです。太字が置き換えた文字。 原文 1「かたち」、2「かたちというもの」