ブログトップ

column

unocolumn.exblog.jp

6/4 須永 豪くんとの往復書簡

「南山の家」のオープンハウスに参加してくれたサバイバルデザインの須永 豪くんとの往復書簡。

こんばんは。早速ご返事ありがとうございます。

「現代土蔵」はこれまでの宇野さん建築の印象と結びつかず、ボーっと見てしまって残念ながら理解できていませんでした。なるほどまた「新たな試みへの挑戦」なのですね。ウカウカしてると見る側が置いてきぼりになりますね。遺産・財産に安住せず、常にゼロからの創作を進み続ける姿勢に驚きます。

こういうと不思議に感じられるかもしれませんが、私自身構造に関してのこだわりは全くありません。私の好奇心の赴くままに特にこだわりはありません。現代住宅の土壁、特に大壁の仕上げについて以前より違和感を持っていました。小舞を組んで荒壁を塗ってもボードを貼ってはおしまいです。叩けばポコポコいうような土壁はどんな塗り方をしても偽物です。かといって土蔵を提案するのもナンセンスです。だから最近は塗り壁の木造は避けていました。しかし、今時期がきたのだと思います。自らの知識、技術、経験。僕の周りにいる職人の技術と信頼関係がその時期を作ったのだと思います。考え方は簡単で、小舞を型枠代わりに土をコンクリートに見立てて充填する。そのためには従来の小舞や土では、構造上、施工性などに問題があるために小舞の編み方を工夫し、土は重量を軽くし断熱性をもたせ、乾燥を早めるためにパーライトを半分ほど配合しました。石灰は凝固を早めるためと壁内での安定化、防腐防虫のためです。これらのことを考えて試みたものです。これも僕の周りにいる職人たちの智恵がなせる技だと思います。

「南山の家」で感じたことを少し書かせていただきます。(率直な感想こそが、なによりの誠意と信じて、正直に。)外部空間は、アプローチ・庭とも地形と周辺環境の空気に素直に従いゆったりして、とても心地よいものでした。中に入るとそれが一転し、祈りの空間、もしくは遺跡のような厳粛さ。石と空気と光だけのガランドウ。高い天井を見上げながら、あぁ『伽藍堂』かぁ・・・と、思いました。精神の居所とでも言うのでしょうか。現在の私は、現在の宇野さんとは考えが違うのかも知れないと感じました。私は住居=人の巣と思っています。ふわふわした居心地、ダラッとした開放、放ったらかしの自由が、怠惰かも知れませんが、好きです。そんな身体感覚の者からすると、南山の家の空間は、ピラミッドか遺跡か、魂のためにある空間のように感じました。(RC造が苦手なわけではありません。阿部勤さん・東孝光さんの自邸、室伏次郎さんの大和町の家は実際に体験し、身体的な空間で好きです)「本郷の家」では空気のユルさを感じ、ここで一日中ごろごろしてたいなぁと思っていました。「南山の家」の外部空間にも同じ種類のユルさ、おだやかさを感じたのですが、内部空間へそれを連続させなかったのはなぜだろう、と不思議です。年齢を重ねての変化なのか、クライアントの個性がそうさせたのか。

須永くんの感想、指摘は大変的確で的を射たものだと思いました。あらためて今の自分のスタンスを確認出来た意見でした。結論から言うと僕は自分でも気付かぬうちに「住宅作家」から今はほとんどいなくなってしまった「真の建築家」を目指すようになっていたのだと思います。

まだ、何を目指して作るかを迷っていた30代。当然のように住宅の依頼しかないので「住宅」というものを手がかりに建築を作り出しました。しかし、次第に「建築のいのち」というものに関心が向くようになりました。建築の寿命には、構造的なものもありますが、一番短命な寿命が「機能」では無いかと考えました。「住宅」はその「機能」の典型です。「住宅」を求められているのだから「住宅」を作るべきではないかといわれればその通りです。しかし、今住宅作家たちが作る住宅を見てみてください。求められる便利さや機能性を優先し、真の豊かさを提案することもなく、一過性のデザインを押し付ける。

不便な家を勧めている訳ではありません。以前の日本の住宅の中にあたりまえにあった自然を取込み、消費されない豊かさを得られる「住宅」、いや「建築」を作れないでしょうか。

安藤さんは、元ボクサーらしく建築を通して自然を「肉体」と対峙させて「豊かさ」を提案しましたが、僕はそれが「心」「精神」に向いているようです。その要素が以前より強くなったせいか、”ユルさ”が失われたように感じたかもしれませんね。

ただ少しばかり感じたのは、須永くんの「住宅」に対する考え方が少し狭いか、固定化されてはいませんか。全ての建築は「住宅」だともいえます。しかし、名前や概念などは本来どうでもいいことだと思いませんか。それらに縛られることなく、真に豊かなものを作ることが大切なことで、私たちに求められていることではないでしょうか。

30代の頃の僕と今の僕とで大きく変わったことがあります。以前は、施主のライフスタイルにある種の理想を求めていました。何かの型に施主の生活をはめようとしていたと思います。しかし、50歳を目前とした今は、施主のライフスタイル対する要望は全くありません。それよりも自分の想像と違うライフスタイルを垣間見ると嬉しくなったりもします。これは自分の思いを確実に建築に託すことが出来ている証しなのかもしれません。

でも、これも今の自分にとっては過渡期だと思っています。私の建築が際立った印象を与えるものだとすれば、それは本来求めているものではありません。時には「草花」のように、時には「木」のように自然に存在することが理想です。

長々と書き綴ってしまいましたが、あらためて自分のスタンスを確認するために書かせてもらいました。独り言だと思って読んでください。
[PR]
by unocolumn | 2010-06-03 21:50 | 建築観
<< 6/14 「意味」について考え... 5/6 」「辰巳芳子 食の位置... >>